吉井源太翁 生家 YOSHIIGENTAOU SEIKA

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吉井源太翁 生家
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土佐紙業界の恩人“吉井源太翁”生家

近代産業史を飾る“土佐和紙”のメッカ伊野町の生んだ偉大なる先覚者に“吉井源太翁”があります。翁の生誕地は現いの町加茂で1309.0㎡(396坪)、ここに文政9(1826)年3月1日、呱呱の声をあげ幼名を徳一郎と言いました。幼少の頃より製紙の家業に励み、長ずるに従って抄紙の科学的根拠を基盤とした独創性と和紙に対する情熱とによって土佐和紙の改良、増産、技術の向上に努めました。

和紙品種の研究開発はもとよりのこと、抄紙機の発明、販路の拡張、充実に力をそそぐとともに、広く全国を行脚して各地の製紙業の指導にあたり普及してきました。

明治41(1908)年1月10日に伊野町において83歳の生涯を閉じました。実に翁は“紙の伊野町”の基礎をつくられたばかりでなく、県をはじめ日本にとって和紙業界の大功労者であります。ここがその源太翁が生れ、育ち、学び、紙業を習得し辛酸をなめて幾多の功績を遺した終焉の地であります。

吉井源太の功績

安政五年(1858年)、江戸に赴いた際に紙の消費量を詳しく調査した源太は、想像以上の需要の多さに驚くとともに、現在の漉き用具では伸びゆく需要に応じることが出来ないことを痛感。帰郷後ただちにその改良に打ち込み、寝食を忘れて苦心の末、ついに万延元年(1860年)、大半紙六枚取り・小半紙八枚取りの簀桁を完成させました。その大型簀桁は「土佐の大桁」と呼ばれています。これにより品質を損なうことなく従来の2倍、3倍の紙を漉くことができるようになり、画期的な量産が可能となったのです。

典具帖紙を改良―品質を高め、輸出に貢献

源太は、もともと美濃にあった典具帖紙を高知で改良して漉き、より薄くて強い新しい紙として開発。この典具帖紙はいの町神谷を中心に漉かれました。この紙がアメリカの博覧会で受賞し、タイプライター用の複写紙などに使われるようになります。町には仲買や問屋が発達し、典具帖紙やコッピー紙は欧米に輸出され、2大ヒット商品となりました。こうして伊野は「紙のまち」として繁栄を迎えたのです。
土佐電鉄の路面電車が伊野まで開通したのは、源太が亡くなった年ですが、その目的は、典具帖紙など紙を運ぶためでした。源太自身も誘致運動をしています。

28種類の紙を開発
吉井源太は明治27年に緑綬褒章を受賞しています。その理由として、紙の開発とともに、全国への技術伝習、外国の博覧会での受賞などが挙げられています。
[吉井源太が開発した紙・28種類]
薄葉大半紙 同上小半紙 同上郵便半切紙 台帖用紙 教科書用紙 絵画漉入詠双紙 記録紙 バトロン紙 桑皮書翰用紙 ヤフマヲ紙 コロホニム漉入水墨紙 絵画漉入ナプキン紙 錦帯粉入掛図用紙 改良薬袋紙 薄葉図写紙 ムクベ書翰用紙 厚手図引紙 吸墨紙 萱製水墨紙 大幅典具帖紙 株券紙 礬水(どうさ)漉入写生紙 防寒紙 絵画漉入短冊紙 絵画漉入額面紙 石綿漉入防火紙 石盤図画用紙 圧写紙

三椏や楮の栽培を奨励
現在はお茶畑が多い、仁淀川流域の山間部。数十年前までは三椏がたくさん栽培されていました。「柳野」などの地名にある「柳」は、三椏のことです。その風景をつくったのは、明治期の吉井源太といえるでしょう。国の政策を進める形で、熱心に栽培を奨励していたことが、日記からも読み取れます。

スポット情報

所在地 いの町3280-1
定休日 月曜日~木曜日
(金曜日、土曜日、日曜日、祝日は開館)
お問い合わせ窓口 いの町教育委員会事務局
088-893-1922
サイトURL https://www.town.ino.kochi.jp/bunkazai/bunka_town_01/
駐車場 有 2台
アクセス JR伊野駅より徒歩15分
高知龍馬空港より車で約1時間

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